2007年01月31日

●違和感

最近、竹書房文庫より刑事コロンボのノベライズ版が出版されるようになった。

刑事コロンボ死者の身代金 決定版

を読んでいるのだが、コロンボの心理描写が()で書かれており、どうも違和感がある。これまで二見文庫やサラブックスで読んできた限り、コロンボの心理描写が描かれていたことがないように記憶している。この作品だけなのか、復刻版ということなので、このほかにこのほかにも同じ時期・訳者で見られることなのか。

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2007年01月30日

●破壊が惜しまれる

日野江城の全容解明へ 南島原市の調査始まる(長崎新聞)
南島原市北有馬町の国指定史跡・日野江城跡の全容を解明する縄張り調査が二十九日、同城跡で始まった。三十一日まで。調査は市が設置した文化財専門委員会副委員長で奈良大助教授の千田嘉博氏(43)=城郭考古学=が担当。日野江城跡での縄張り調査は一九八二年の国史跡指定を受けて以来、初めて。
 日野江城跡は世界遺産暫定リストに追加された本県の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の一つ。二〇〇五年十一月、旧南高北有馬町が同城跡で無許可の桜植樹工事を行い、約三十カ所を損壊。文化庁から元町長ら二人が告発され、県警の捜査が続いている。

遺構の破壊という負の話題で名をはせた日野江城で本格的な調査が始まったようだ。

奈良大学からわざわざ千田先生を招いての調査ということで、かなり本格的にやるようだ。記事によれば主要部の破壊は免れていたとのことなので、よかった。今後調査が進んで、遺構破壊によって破壊された部分が非常に惜しまれるという可能性もあるが。

遺構の様子ではなく、千田先生のワンショットを掲載している長崎新聞はなんか素敵。

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2007年01月29日

●案の定。。。

「バチカンに眠る信長の夢」が放送された。

「全ての鍵(キー)は安土城に。」などと銘打っていて、ローマ法王へ献上した屏風絵のなぞにも迫るというふれこみだったが、正直がっかり。

小説の『火天の城』をヒントにしたらしく、しっかりとした検証が正直少ない。さらに、安土城天主にしても内藤案だけで進められており、これまた新たな検証がまったくなされていない。そもそも安土城は天主だけではないはず。近年推し進められている発掘調査の結果を生かした全体像の検証がおこなわれなければ、城の謎が解けるはずがない。

しかも、結局屏風絵が不明のまま。

ただのドラマの域を出ないものだった。

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2007年01月28日

●怪我の功名?

福岡城 築城400年 当初の石垣遺構か 福岡市教委 上の橋大手門跡で確認(西日本新聞)
 福岡市教委は25日、今年築城(落成)400年を迎える国指定史跡・福岡城跡(同市中央区城内)内の「上の橋大手門」跡にある石垣内部から、築城当初のものとみられる石垣遺構が見つかったと発表した。福岡城跡内の建築物跡から、築城当初の遺構が見つかったのは初めて。同市教委は「城の変遷を知る上で重要な手掛かりとなる」と話している。
福岡沖地震で一部が損壊した南側石垣の解体復元工事に伴う発掘調査によって、発見されたわけで、災い転じて福となすといったところか。しかし、記事にあるように築城当初は2分の1程度で、現在の規模になったのが江戸中期以降だとすると、大規模な改修工事、それも防御力の強化がよく認められたものだ。

その一方で、逗子市の住吉城址が破壊されたというニュースもあった。自分は不勉強でよく知らなかったものの、かなり良好な状態で残っていた貴重な中世城郭であったようだ。鎌倉が世界遺産正式登録を目指しているというなかで、周辺の逗子市でこうした破壊がおこなわれたというのは残念でならない。

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2007年01月27日

●意外な大物

今日は武蔵松山城へ行ったのだが、その後の懇親会でとある漫画家さんが同席していた。隣にいた人が単行本を差し出しサインをもらいえらく感激していたが、漫画といえばシティーハンターと奇面組ぐらいしかちゃんと読んだ事のない自分にはどれほどの人かさっぱりわからなかった。

家に帰って、ぐぐるとびっくり。漫画に疎い自分でもタイトルは聴いたことのあるほど有名な漫画の作者さんだった。実はとても貴重で贅沢な機会だった。

武州松山城は堀も大きく深くよく残っており、なかなか見ごたえのある城だった。隣接する吉見百穴も立ち寄ったが、これまた圧巻。来年度の日本史の授業の素材に使えるかもと思い、いろいろ写真を撮った、こちらもなかなか贅沢だった。

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2007年01月26日

●まさにワンチャンス。

前の勤務先の大学で同じく派遣職員(図書館系ではない)をしていた人に、久々にメールをした。というのも、派遣の規則で5年以上同じ箇所での勤務はできないことになっており、そろそろ異動もしくは退職のじきだと思い、連絡を取った。

すると、昨日で退職したとのこと。

どうも、故郷でお兄さんの具合が芳しくなく、サポートするために急遽決まったということで、明日にはいったん故郷へ帰るという。

まさに、今日しかないタイミングで連絡がつき、しばしの別れを惜しんで食事をする。

本当に連絡を取ってよかった。

税所の職場での同僚で連絡を躊躇しているうちに、関西へ帰ってしまい、いまだに悔いている人がいただけに。まめに連絡をとることの大切さを改めて痛感。

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2007年01月25日

●またもや行き直し?

水戸城 15世紀に大改修 江戸氏の勢力 定説以上か(中日新聞)
 鎌倉時代に築城され、水戸徳川家の居城にも使われた水戸城跡の発掘調査で、水戸市教委は二十三日、同市三の丸二の水戸第二中学校敷地内での調査結果を発表した。
 これまで明らかになっていた古文書などによると、水戸城は十五世紀から十六世紀にかけて、江戸氏の居城だった。その後、江戸氏を敗走させた佐竹氏が、十六世紀末に初めて近世城郭として整備したとされる。今回の調査では、現場から陶磁器の破片などが見つかり、江戸氏が十五世紀ごろに、すでに大改修を実施していたことが分かったという。
水戸城は4年前の夏に、思いつきでふらっと立ち寄った。ほとんど事前調査がない状態で行ったので、門だけを見て帰った。時間も遅く、学校が密集して住宅もあったりで、あまりうろうろしていると、不審者と間違われる恐れがあるので、ゆっくり見て回れなかった。 とはいえ、そもそも水戸藩の城としての水戸城という認識でだったので、今回の調査結果にあるような戦国期のことはまったく頭になかった、いま初めて認識した。、よくよく考えれば、地形的にも戦国期に大名が城を構えてもいいものだが。

記事では、水戸氏の勢力に関するものばかりで、肝心の城ではどこからどんなものが出てきたかが書かれておらず、残念。

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2007年01月24日

●メアリー

1つ目の授業が終わると、生徒が二人やってきて、

「先生。X日に、○○駅であの後どこ行ったんですか?」

ん?そういや、勤務校最寄り駅のホームで2人組を見かけた。で、

「買い物して帰っただけだよ。そういや、ホームで見かけた」

どうやら、ホームで気づかなかったけど、電車内で気づいて追いかけてみたそうだ。歩くのは結構は早いので見失ったらしい。

3つ目の授業で、生徒に問題を解かせて歩いて回っていると、1人の生徒から、

「先生X日に、△△にいましたよね」

ん?ああ、あの後途中下車して本屋に寄った。

「本屋があるからね」

と答えた。

同じ日に、2組の生徒に目撃されていた。

いや~、私立校はこういうことがあるから本当に油断ならない。

ホント、壁に耳あり障子に。。。(どーん、どーん、どーん、べた、べった)

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2007年01月23日

●そろそろ再始動。

先々週の土曜にHDD交換で復活したメインマシンにメールデータを移行して、とりあえず環境をほぼ復活。

ということで、メインマシンの使用をぼちぼち本格化へ。

とはいえ、まだ前の環境に完全に戻っていないせいか、なんだか使い勝手が悪い。。。

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2007年01月22日

●評価を無駄にしないように。

そのまんま東が圧勝で宮崎県知事に当選というニュースが、新聞各紙、各TVニュースでトップを飾った。

最初は泡沫候補といわれていたのが、いつの間にか接戦という情勢になり最終的には圧勝に。いわゆるタレント候補とは大きく違う選挙戦を展開しての知事当選となった。これは、単なるタレント人気というよりは、選挙戦を通じて有権者の彼に対する評価の変化の結果であり、それだけ信頼を勝ち得たということでは、従来のタレント候補とは違い評価できるのかもしれない。

すねにいろいろと傷があるわけだが、早稲田大学の二文に入学以来、地方自治を学び(なんで二文で地方自治だったのかは謎)、政治経済学部に再入学して学び続けただけのことはある。選挙戦を通じて、その熱意が伝わったのだろう。

これからが、さらに大変なのは間違いないだろう。

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2007年01月21日

●どうして気付いた?

最古の石見国図を発見(山陰中央新聞)
 戦国末期の一五九〇(天正十八)年ごろ、戦国武将の毛利氏が作成した「石見国図」が、仙台市の宮城県図書館に所蔵されているのを、東亜大学(下関市)の川村博忠教授が発見した。最古の石見の国絵図となり、大田市の石見銀山と島根県鹿足郡の五カ所銀山の当時の隆盛ぶりを詳しく記載。今夏、世界遺産登録される石見銀山遺跡をはじめ、石見国の歴史を考える上で画期的な新資料と研究者は注目する。

そういえば、国絵図は2年のゼミで調べた関係で、発見した川村さんの『国絵図』も読んだ。その国絵図以前に作られた国図というから、確かに画期的な発見。あとは、毛利氏のみのものなのかどうか。1590年ころであれば、秀吉の指示によるものと言う可能性はある。そのばあい、全国の大名へ命じたのか、銀山を有する石見国など重要な国に対してのみ出されたのか。
城郭関係では、要害山の山吹城に三層の天守が描かれているのが気になる。単に形式的に描いたのか、本当に天守が建てられていたのか。記事の写真だと、戦国期城郭ではないようにみえる。
それにしても、よく見つかったな。というか、いままでなぜ気付かれなかったのだろう。

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2007年01月20日

●墨はあなどれない。

富山城石垣から多数の墨書跡 金沢の全国研究会で発表 城郭刻印の研究に新分野 (北國新聞)  富山城の石垣から墨書きされた数字や文字の残る石が多数発見されていたことが分かり 、十九日、金沢市の県文教会館で開かれた第四回全国城跡等石垣整備調査研究会で、富山 市教委埋蔵文化財センターの古川知明専門学芸員が発表した。石垣に彫られた刻印は各地 の城にあるが、墨で具体的な職名らしい文字が書かれた跡まで残っていることを調査した 研究は珍しい。
 「富山城の石垣修理の調査成果」として発表された報告では漢数字の黒墨書が三十例、 同じく漢数字を朱墨で書いたのが十五例で、七や十二などの数字が多い。が、中には「六 月廿六日」や、職人の名前らしいものが読み取れるものもあった。また、石工が花押(サ イン)をまねて書いたような墨跡のほか、施工をしやすく引いた線とみられる墨跡も確認 された。
 墨で石材に文字が書かれるのは、刻印を彫り込むための下書きともみられているが、直 接加工する職人らの名前が混じるとなると、城づくりに参加した下級職人の生々しい息遣 いが読み取れる。金沢城の石垣からも墨書跡は確認されているが、富山城ほど多くないと いい、石垣研究に新しい分野を開くことになる。
 このほか、堀の水を抜いた場所からは、普段は水面下にあって見ることの出来ない「☆ 形刻印」の石を確認した。古川さんの報告では「真上に同じ刻印がある」といい、石垣の 方角から見ても、陰陽道の考えが反映している可能性があると古川さんは指摘している。
つい先日高松城の天守台でも発見された石垣の墨書。どうやら、刻印のための下書きではなく、わざわざ墨書したと考えたほうがいいようだ。それにしても、高松城といい、よく残っていたな。松山城の天守に落書きがあったのも、残っていたわけだから、墨のちからはかなりのものだ。
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2007年01月19日

●くび

はとりあえず、繋がったようだ。

辞令を口頭で受けた場所がなかなかすごかったけど。

何を教えるのか、何年を教えるのかは不明。

高2の日本史がいいな。

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2007年01月18日

●自分で行くか。

戦国の往時に思いはせ 空堀など発掘 現地説明会が盛況 川口・戸塚城跡(埼玉新聞)
 川口市戸塚の中世の城跡、戸塚城跡発掘調査で十四日、現地説明会が開かれた。午前と午後の二回行われ、午前では予想を上回る百三十一人が見学に訪れた。
 戸塚城跡があるのは、市北東部に広がる大宮台地鳩ケ谷支台に広がる戸塚立山遺跡の中。同遺跡は十五万平方メートルで、これまで三十四次に及ぶ発掘調査が行われ、旧石器時代から近世にかけて、石器、土器、住居跡、建物跡、炉穴、土坑、柱穴など遺構、遺物が見つかっている。
 戸塚城は戦国時代に台地を利用して築かれ、天正年間(一五七三~一五九二年)に、行田忍領主成田氏の家臣小宮山弾正介忠孝の支配していた城とされている。
 城跡総面積は同遺跡の約半分の推定七万平方メートル。これまでに幅十メートル、深さ四・五メートルの空堀、曲輪(くるわ)、橋脚跡などが発掘されている。
気になっていた城のひとつ。説明会開催のニュースを14日を過ぎてから知ったので、どんなものかと思っていたら、4日遅れでニュースになっていた。 記事を見る限り、なかなかの規模のようだ。今度暇を見つけて行ってみよう。
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2007年01月17日

●陣城ですな。

三重・亀山城攻め「基地」確認 山内一豊「功名」の原点(中日新聞)
 三重県亀山市の中心部にある遺構が、昨年のNHK大河ドラマ「功名が辻」に取り上げられた戦国武将、山内一豊(1546−1605年)が出世への道を開いた羽柴秀吉の亀山城攻め(1583年)で使われた城跡と分かった。戦はドラマでも家臣が戦死する壮絶な場面が描かれている。市は「功名の出発点を物語る遺跡」として一部を保存する方針を固めた。
 この戦で秀吉方の遺跡が発掘、確認されたのは初めて。

一昨年の全国城郭研究者セミナーのテーマだった陣城。ただ、記事を読むかぎり、断定するのは早い気がする。陣城はまだまだ研究段階と言っていいので、一部と言わず保存して欲しい。
去年亀山城に言ったが、分からなかった。

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2007年01月16日

●天守台発掘ブーム?

名護屋城天守台に別の開口部 設計変更か(佐賀新聞)
 唐津市鎮西町の国特別史跡・名護屋城跡の天守台南側から、東側にある出入り口とは別の開口部が新たに確認された。発掘に当たっている県立名護屋城博物館は、豊臣秀吉の指示で築城の途中で出入り口を南側から東側に変更したのではないかと推測する。なぜ変更したのかは謎だが、城の中心部分である天守台の設計変更は全国的にも極めて珍しく、秀吉が軍事拠点としての名護屋城を重要視していたことを裏付ける貴重な発見といえそうだ。
高松城の天守台に続いて、名古屋城の天守台でも新たな発見。

いまいち写真だとどのような開口部かが分からないが、一緒に掲載されている図を見る限り、出入口として計画されていたものなのか、何か別の目的を持って作られたのかは不明。角石があったということが、出入口の根拠となっているだけで、まだまだ検討の余地はある。

上に何も建っていない名護屋城でも、まだまだいろいろ発見があることに驚き。

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2007年01月15日

●チャンスを生かしてほしい。

シダックスから育成枠で楽天入りした中村の1軍スタートが決まった。

中村という選手の能力からすれば、それほど驚くことでもないが、育成枠という立場である以上、大抜擢といえる。おそらく、野村監督の意向が大きいのだろう。教え子という点では、チーム全体でも野村の考えに対する習熟度、適応能力は間違いなく上位である。このチャンスを生かして、早く支配化選手になり、1軍入りしてほしい。社会人1年目から見ているが、決して不可能ではない選手と信じている。

さて、シダックス選手の新天地が徐々に判明してきている。(弘さん、うさぎさん情報)
宮崎外野手の新日石
深山外野手のOBC高島
以外だと、

投手
大矢宏起:一光
 サンワード貿易廃部による移籍直後の廃部ということで、大変だったと思う。次の新天地では長くプレーしてほしい。
山崎猛志:西濃運輸
 専門学校からシダックス入りという苦労人。今度は存分に力を発揮してほしい。

捕手
坂田精二郎:セガサミー
 どうやら兼任コーチらしい。経験を生かして、選手として正捕手を奪取してほしい。
日美雄大 →住友金属鹿島
 一度しか見ていないが、線が細い気はしたが、フットワークなどなかなかのものがあるように感じた。新天地の飛躍に期待。
 
内野手
藤澤英雄:住友金属鹿島
 いすゞ自動車での廃部を経験して、やってきてベテランならではのプレーを見せてくれた。まだまだやれるはず。
大房仁:西濃運輸
 なかなか出番に恵まれなかったが、レギュラー奪取を目指してほしい。

また、判明しだい、まとめていくつもり。

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2007年01月14日

●やっぱり詐称か。

おととい、携帯に届いたスパムのアドレスを見てびっくり。

なんと、地域ドメイン。

「なんでまた、地域属性型ドメインなんて、足のつきやすいもので?」と思ったら、ドメイン検索の結果、データなしということで、アドレス詐称のようだ。

そりゃそうだよな。汎用ドメインや、com、netを含めたほかの海外ドメインなんかより高くて、手続きの面倒などメインで、スパム送るなんて、考えられない。

ドメインといえば、「2ch.net」が差し押さえなんて話で盛り上がっているけど、どうなんだろ。名義は西村博之じゃないけど、管理責任者に西村博之とあって住所も一緒だから、所有物とみなされる可能性はあるかもしれない。でも、海外のレジストラを使って登録しているドメインの差し押さえと所有者移転をどうやって行うんだろう?

まあ、更新期限が2007年1月22日とあるので、更新料を払わせ無ければ、ドメインそのものの権利を失う可能性はあるが。

そういや、自分のドメイン更新料も払わないと。

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2007年01月13日

●復活間近

今日は、昨年、故障したメインノートの修理へ。

アドバンスドテクノロジーのHDD換装とリカバリーサービス。問題のHDDは、読み取り可能であれば、外付けにしてもらうこととで、幕張へ持ち込み修理へいく。

修理作業中は、千葉城のなんちゃって天守の郷土資料館を見に行って時間をつぶす。

無事、HDDの換装とリカバリーは完了。問題のHDDも外付けに。

家に帰ってつないだところ、やはりHDDが壊れかけているせいか、なかなか読み取れなかったりするが、なんとか主なデータの取り出しは成功。

あとは、メインマシーンのXPにSP2を当てて、ウィルスバスターをインストールするなど、かつての環境に近い状態近づける作業を残すばかり。というか、SP2のCD-ROMってどこに置いたっけ。

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2007年01月12日

●正確には未亡人

世界史の授業で、インドネシアの独立の話をした。

初代大統領のスカルノの名前を黒板に書くと、

「デヴィだ。デヴィだ。」

と、生徒が言い出した。こっちが話すまでもなく、認知されていた。恐るべき知名度。

あなどれじ。

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2007年01月11日

●体が。。。

今日から通常授業。

のはずなんだけど、、、

どうも、体がついてこない。。。

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2007年01月10日

●仕事始め

仕事始め。

今日は授業ではなく、学校行事関係。

初っ端から、結構長いことはたらいて疲れた。

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2007年01月09日

●江戸城展

今日は冬休み最後。

両国の江戸東京博物館で開催の特別展「江戸城」を見に行く。

平日にしてはそこそこ混んでいた。

展示は江戸城関係の文書や絵画資料以外にも、近世城郭を知るためということで、安土城や聚楽第から出土した金箔瓦が展示されていて、なかなか興味深いものが多かった。

VRによる復元は、「本丸御殿と天守」というタイトルだけど、本丸御殿の紹介がメイン。といっても、いきなり内部の復元で、全体の構造があまり見えてこなかったのが残念。天守も最後に寛永の天守の外観復元の紹介のみで、せっかく展示ではいくつかの図面の紹介をしていたのになんだかもったいなかった。結局そのDVDの予約はしたけど。

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2007年01月08日

●目的が気になる。

名古屋城天守閣、昔の姿に…最上階の窓小さかった(読売新聞)
 名古屋市は、名古屋城天守閣最上階の窓を、焼失前の外観に戻す方向で検討に入った。
 現在の窓は眺望に配慮して、以前の約2倍の横幅があるが、市民の間から「往時の姿を忠実に再現してほしい」と、根強い要望があるためだ。
 名古屋城天守閣は1945年に戦災で焼失し、59年に再建された。5層7階の最上階は展望室になっており、良好な眺望を提供するため、縦73センチ、横152センチの大型のガラス窓が、四方の壁面に20か所取り付けられている。
 焼失前の天守閣最上階にも同数の窓があり、窓枠自体の大きさもほぼ同じだったが、2枚一組の引き戸のうち1枚が固定され、外側が白漆喰(しっくい)で塗り固められていたため、窓の大きさは、今の半分ほどしかないように見えた。
 名古屋城管理事務所によると、再建当時はガラス窓の上部に戸袋があり、窓の半分を覆う引き下ろし式の板戸が格納されていた。焼失前と同じ小ぶりな窓を“演出”するためだったと見られる。ところが、85年の改修でアルミ製の窓枠に取り換えられた際、戸袋、板戸とも取り外されてしまった。同管理事務所の林幸司所長は「古いことなので、取り外された理由は分からない」と話す。
天守閣は再建から50年近くがたち、名古屋市は今後15年以内に、外壁や屋根の改修、各種設備の更新、耐震工事などに着手することを決めている。窓の改修も、これらの工事と並行して実施できるか検討する。

古写真と違うという話は前からあったが、本丸御殿の復元事業を控えるにいたって、検討し始めたようだ。眺望を考えると、半分をふさぐのはなかなか決断に勇気がいる。1985年以前の引きおろし式の板戸で演出可能にするのか、焼失前の天守と同じく漆喰で塗り固めてしまうのか。
そもそも、なんで半分を漆喰で塗り固めていたのだろうか。天守建築とうそからそうなのか、何かの機会に塗りか耐えられたのか。目的も気になるところ。

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2007年01月07日

●次は高松?松山?

穴蔵入り口、全容現す-高松城天守閣跡発掘調査(四国新聞)
 高松城天守閣跡(香川県高松市玉藻町)の発掘調査で、高松市教委は五日、発掘現場を報道陣に公開した。天守台石垣の側面から天守閣の一階部分に当たる穴蔵の入り口が全容を現し、入り口横の袖石からは天守台の水平レベルを示すとみられる墨書が見つかった。高松市教委は「(墨書は)天守台の構造を示す貴重な資料」としている。高松市教委は七日に現場を一般公開する。
 穴蔵の入り口は幅三メートル、高さ二・五メートル。天守台に上るため明治以降に設置された階段を取り除いたところ、石垣側面の一部を切り取った格好で見つかった。
 入り口は穴蔵を埋める際に石積みでふさがれているが、切断面が真っ直ぐな袖石で囲まれ、全容がはっきり確認できる。入り口前面下部では平らな石を並べた階段も出土した。 墨書は袖石など二カ所で見つかり、袖石には「柵天守九尺五寸下水」と書かれていた。墨書のある石から「九尺五寸(二八七・八五センチ)」下に天守の最下部があることを示しているとみられ、実際の天守台の底部までの高さと一致した。もう一つは穴蔵入り口の床面の石に「平元」とあり、穴蔵の底を意味すると推測される。
 墨書のほか、城内各所で見られる「ち」「り」と読める符号が刻まれた刻印石も発見。こちらは石を積む際の目印の可能性が高い。
 天守台上面では、穴蔵の壁面の最上部とみられる石積みや、天守閣の礎石四個と礎石の跡五カ所を確認。天守閣解体後に建てられた玉藻廟(びょう)の基礎も明らかになっている。
復元に向けて次々と判明している高松城の天守台で、またもや成果が。構造だけではなく、墨書と刻印が見つかったというのも見逃せない。一般公開するなんて、うらやましい限り。

去年は、初めて四国へ行ったわけだけど、高知の次は高松かな。その前に、松山城は外せないか。

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2007年01月06日

●GWの予定は決定?

鬼ノ城北門の復元進む 3月末完成へ 総社市教委 巨石敷き柱並ぶ 壮大な門構え 徐々に(山陽新聞)
 総社市奥坂の古代山城・鬼ノ城(国指定史跡)の整備に取り組む総社市教委は、同城北門の復元作業を進めている。西門や角楼に続く遺構修復。3月末の完成に向け、古代の土木技術を結集した城の威容が現れつつある。

古代の山城では、調査・復元が進みつつある鬼の城。古代の土木技術を結集したという城門が一体どんなものなのか、気になるところ。

3月末の完成ということは、今年のゴールデンウィークは岡山かな。津山城も備中櫓も復元工事中は見たけど、完成後は見ていないことだしね。

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2007年01月05日

●忍城と石田堤

忍城へ行く。

まずは、吹上駅で下車して、石田三成が秀吉の小田原攻めの際に、忍城を包囲して水攻めを行ったという石田堤を見に行く。
大体の場所は地図で把握していたのだが、これが思いのほか遠かった。調べた限りでは駅から徒歩15分という話だったが、30分近くかかってしまった。途中本当につくのかどうか不安にあってしまった。しかも川の無いところに唐突に石田堤が現れる。石田堤史跡公園とつけられるだけあって、堤の断面を見せたり、解説版が詳しかったり、新幹線の江華下の櫓の下に立つと、アナウンスが流れたりと、なかなか趣向が凝らされていた。

駅に戻ってバスで忍城へ行こうと思ったが、ちょうど駅に向かう通りに出たところで、ちょうどバスが出て行った。で、仕方なくタクシーに。

忍城自体は遺構はほとんど残っておらず、今たっている御三階櫓も位置も外観も正しいものではない。資料館の展示を見るのが目的だったりもする。本当は水城公園にも行くつもりだったけど、資料館を出たところで、ちょうど循環バスの時刻になったので、帰りの足を考えて、素直にバスに乗ってJR行田駅へ。

石田三成の陣跡や、行田市の石田堤など、まだまだ見て回るところがあるので、そのうち機会を見つけて、再訪しよう。

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2007年01月04日

●無事に。

HDDレコーダーで、「どうでしょうクラシック」を録画できた。

放送開始の1時より少し前から録画が始まっているのが気にはなるけど。

DVDがすべて発売になるのは絶望的なので、コツコツ録画して集めていこう。

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2007年01月03日

●新天地へ

シダックス選手の今後について。

プロ入りした森福、中村両選手以外について、しっかり発表になっている選手の動向を。

昨年、宮崎武幸選手の加入が、新日本石油のHPで発表されていました。
昨年はレギュラーを確保しつつあっただけに、新日本石油でも外野のレギュラーを確保して、ぜひとも活躍してほしいもの。

そして、今日付けの京都新聞は、

「野村ID」の申し子入団 元シダックス深山さん、OBC高島に

 滋賀県高島市を本拠にする社会人野球のクラブチーム「OBC高島」に、社会人野球シダックスにいた深山悦男さん(21)が入団した。シダックスでは野村克也監督から指導を受けており、「学んだID野球で、チームの中心選手として活躍してほしい」と期待を集めている。

深山悦男選手の滋賀県のOBC高島への加入したそうだ。
記事によれば、監督は「即戦力でやってもらわねばならない。その自覚を持ってほしい」と期待しているとのこと。
残念ながら、出場機会に恵まれなかったシダックスの3年間の悔しさをぶつけて、活躍してほしい。高阪選手は野村シダックス最初の1年はボールボーイ中心で、2年目も控え状態。ところが、3年目の途中から一気に開花したわけで、ずっとベンチを温めるなかで、得られたことも多いはず。

松下電器入りがウワサされた選手もいるが、まだ発表にはなっていないので、詳細は不明。

おそらく、これからしばらくすると、キャンプが始まり、移籍先も徐々に明らかになるだろう。

Posted by tawagoto at 23:32 | Comments [0] | Trackbacks [0]

2007年01月02日

●トホホ。。。

DVDレコーダーを買いに行く。
明日(正確にはあさって)から放送開始の「どうでしょうクラシック」を保存するため。
思いっきりボケをかまして、設定に手間取る。
理由はトホホすぎて、書けません。

Posted by tawagoto at 22:29 | Comments [0] | Trackbacks [0]

2007年01月01日

●一年の計は。。。

さて、2007年になりました。

年初ということで、今年の目標!!

と、行きたいところだけど、正直思い浮かばず。

というか、今年1年の身分が確定しておりませんから。なんともねえ。

残留なのか。
FAなのか。
はたまた自由契約なのか。。。

とりあえず、昨年の研究を何らかの形でまとめたいなと。

もし出すなら、指導教諭関係のほうからかなあ。

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